ザンコクでワイセツでユーガイが規制された世界『トラッシュカン』
規制の話題が盛んな時期に読んだので、メチャクチャ考えさせられました。
古張乃莉の短編集『トラッシュカン』に収録されている「Live On Flesh」は、純真な子供の育成のため「残酷、もしくは猥褻な情報」が完全に規制された世界が舞台です。本は次々と発禁。歴史すら書き換えられ、保健や生物の授業も消失。「そういう」人類の真実は、医大などへ進まないと勉強できない仕組みになっています。
子供達は、自分がどうやって生まれてきたのかを知ることもできません。
この短編の初出は2000年1月号「Wings」なので、今渦中にある「エロゲ規制」とは関係ありません。関係ありませんが、エロゲに限らず、あらゆる表現が「規制」と戦ってきた歴史がこの世にはありますね。
表現はツクリモノでありオトギバナシでありフィクションです。
しかし、そこに描かれてる欲望は現実の鏡。それを抹殺して「存在しない」ものとする過剰な規制行為は、歪んだ現実を見せて子供を騙す「Live On Flesh」の世界と地続きではないでしょうか。
〈性〉をこの世から削除した「Live On Flesh」が、次に「ザンコクでワイセツでユーガイ」として抹殺するものは、何でしょう。

子供もステーキも畑で採れるなら、そりゃ「ケンゼンでアンゼン」でしょうなぁ。
といっても、実際セックスしなきゃ子供はできないし、牛を殺さなきゃステーキも食べれませぬ。どれだけ子供にキレイ事を説いたって「ザンコクでワイセツ」とされる行為が、世の中から消えるわけじゃーありません。常に「ザンコクでワイセツ」な欲望を抱えてるのが人間なんだから。
リョーキ的表現をなくすことでリョーキ的事件がなくなるなら、なんて素敵なんでしょう。
しかし、当然ながら現実に犯罪がなくなることはなく、ザンコクでワイセツな衝動が人の心から消えることもないわけで。
●ここからは性と犯罪と物語の話です●
衝動も犯罪も消えないのに、被害者が犯罪を未然に防ぐ完璧な手段なんて存在しません。たとえば性犯罪、「肌を露出しなければいい、護身術を習えばいい」で防げる犯罪ではありませんね。もし、持たなければならないものがあるとすれば、それは性犯罪に対する恐怖心ではないでしょうか。
「この世にはこんな恐ろしい暴力があって、いつ自分が暴力に襲われるかわからない」
なんの盾にもなりませんけど、そういう犯罪が現実にあると知ること、警戒心を持つことは大事だと思います。――アタシが警戒心を知ったのは、漫画でした。
『電影少女』で、もえみが男に襲われるシーンは、子供心にとても恐かったし、『凄ノ王』の輪姦シーンは、外へ出るのがイヤになるほどの絶望を味わいました。普段はそんなこと忘れて生活してるわけですけど。
子供は、自分を取り巻く人々――家族や友達の「人の心」に触れて感情を知るのですが、「物語」が感情を教える場合も多いのではないでしょうか。
冒険する少年のワクワク、恋する少女のドキドキ、事件に遭遇するハラハラ――平凡な生活ではなかなか味わえない、ドラマティック感情。それを教わるのが物語の世界です。胸踊る楽しい物語ばかり……ではなく、恐ろしいリョーキ的物語からも。
暴力を振るう側の高揚感と、暴力に晒される側の恐怖。
バイオレンスな描写は、読者にふたつの感情を体験させます。それは、性暴力も同じ。女子として性暴力にさらされる恐怖に震えながら、同時に異様な興奮も覚えたものですよ……『電影少女』なんかにゃ。
「ザンコクでワイセツ」な表現を完全に規制すれば、「ザンコクでワイセツ」な現実を知る機会がなくなります。淡々としたTVの報道だけで、悲惨な実情を想像することができるでしょうか。犯罪を恐れる気持ちが芽生えるんでしょうか。
……「ザンコクでワイセツ」な表現を一切排除した世界は、「ザンコクでワイセツ」な現実に子供達を無防備に晒すことを意味するのではないでしょうか?
ま、エロゲの場合はゾーニング対象商品なので、上の話とは問題がぜんぜん変わってくるわけですが! それでも、根っこは同じだと思うのです。
『肉』の正体すら規制する「Live On Flesh」は、現実離れした特異な世界観かもしれません。けど、リアルの世界でも規制がエスカレートし続けたら……?
●それはともかく、『トラッシュカン』には極上の〈痛み〉が詰まってます●
古張乃莉の『トラッシュカン』が発売したのは昨年末。たまたま本屋で見てジャケ買いしたのですが、大・正・解!でした。古張乃莉は昔、藍川さとるという名で『飛行×少年』を描いてた漫画家さんですい。といえば「懐かしい!」という女の子も多いかも。
他の作品も、心の〈痛み〉を丁寧に描いた良作ばかり。ものすごく「Wings」らしい単行本だと思いました。「Wings」って、「りぼん」や「なかよし」や「花ゆめ」に比べて、昔から〈痛み〉に特化した雑誌じゃありませんでした?
痛みや恐怖なんて、体験しないなら体験しない方がいいに決まってる。決まってるけど、痛みを感じること、痛みの存在を知ることは、きっと生きていく上ですごく大事。
「で その理屈でいくと
親がセックスして子供ができるなんて話は
子供にとってザンコクでワイセツでユーガイなんだってさ」
―――『トラッシュカン』収録「Live On Flesh」
古張乃莉の短編集『トラッシュカン』に収録されている「Live On Flesh」は、純真な子供の育成のため「残酷、もしくは猥褻な情報」が完全に規制された世界が舞台です。本は次々と発禁。歴史すら書き換えられ、保健や生物の授業も消失。「そういう」人類の真実は、医大などへ進まないと勉強できない仕組みになっています。
子供達は、自分がどうやって生まれてきたのかを知ることもできません。
「ボクはアキの子供じゃなかったの!?
本当はキャベツの子供だったの!?」
―――『トラッシュカン』収録「Live On Flesh」
この短編の初出は2000年1月号「Wings」なので、今渦中にある「エロゲ規制」とは関係ありません。関係ありませんが、エロゲに限らず、あらゆる表現が「規制」と戦ってきた歴史がこの世にはありますね。
表現はツクリモノでありオトギバナシでありフィクションです。
しかし、そこに描かれてる欲望は現実の鏡。それを抹殺して「存在しない」ものとする過剰な規制行為は、歪んだ現実を見せて子供を騙す「Live On Flesh」の世界と地続きではないでしょうか。
〈性〉をこの世から削除した「Live On Flesh」が、次に「ザンコクでワイセツでユーガイ」として抹殺するものは、何でしょう。

「でも一番おかしーのがさ
『肉』の正体を教えちゃいけねんだって」
「――何だ? それ」
「だからさーたとえば
ステーキは牛を殺して焼いて食うんだとか言うと
純真なお子さんはザイアクカンにさいなまれて
気持ち悪いとかもう食べないとか思うんだってさ」
「……だから?」
「だからさ
そんな罪はなかった事にしてあげるのさ
『肉』は生き物じゃない
畑で取れたとでも言うんじゃねーの」
―――『トラッシュカン』収録「Live On Flesh」
子供もステーキも畑で採れるなら、そりゃ「ケンゼンでアンゼン」でしょうなぁ。
といっても、実際セックスしなきゃ子供はできないし、牛を殺さなきゃステーキも食べれませぬ。どれだけ子供にキレイ事を説いたって「ザンコクでワイセツ」とされる行為が、世の中から消えるわけじゃーありません。常に「ザンコクでワイセツ」な欲望を抱えてるのが人間なんだから。
リョーキ的表現をなくすことでリョーキ的事件がなくなるなら、なんて素敵なんでしょう。
しかし、当然ながら現実に犯罪がなくなることはなく、ザンコクでワイセツな衝動が人の心から消えることもないわけで。
衝動も犯罪も消えないのに、被害者が犯罪を未然に防ぐ完璧な手段なんて存在しません。たとえば性犯罪、「肌を露出しなければいい、護身術を習えばいい」で防げる犯罪ではありませんね。もし、持たなければならないものがあるとすれば、それは性犯罪に対する恐怖心ではないでしょうか。
「この世にはこんな恐ろしい暴力があって、いつ自分が暴力に襲われるかわからない」
なんの盾にもなりませんけど、そういう犯罪が現実にあると知ること、警戒心を持つことは大事だと思います。――アタシが警戒心を知ったのは、漫画でした。
『電影少女』で、もえみが男に襲われるシーンは、子供心にとても恐かったし、『凄ノ王』の輪姦シーンは、外へ出るのがイヤになるほどの絶望を味わいました。普段はそんなこと忘れて生活してるわけですけど。
子供は、自分を取り巻く人々――家族や友達の「人の心」に触れて感情を知るのですが、「物語」が感情を教える場合も多いのではないでしょうか。
冒険する少年のワクワク、恋する少女のドキドキ、事件に遭遇するハラハラ――平凡な生活ではなかなか味わえない、ドラマティック感情。それを教わるのが物語の世界です。胸踊る楽しい物語ばかり……ではなく、恐ろしいリョーキ的物語からも。
暴力を振るう側の高揚感と、暴力に晒される側の恐怖。
バイオレンスな描写は、読者にふたつの感情を体験させます。それは、性暴力も同じ。女子として性暴力にさらされる恐怖に震えながら、同時に異様な興奮も覚えたものですよ……『電影少女』なんかにゃ。
「ザンコクでワイセツ」な表現を完全に規制すれば、「ザンコクでワイセツ」な現実を知る機会がなくなります。淡々としたTVの報道だけで、悲惨な実情を想像することができるでしょうか。犯罪を恐れる気持ちが芽生えるんでしょうか。
……「ザンコクでワイセツ」な表現を一切排除した世界は、「ザンコクでワイセツ」な現実に子供達を無防備に晒すことを意味するのではないでしょうか?
僕らは 罪を消すために 血を洗い肉を焼いた。
罪を知らない 僕らの子供達には
もうすでに 首がないのかもしれない。
「これは、いけないこと?」
―――『トラッシュカン』収録「Live On Flesh」
ま、エロゲの場合はゾーニング対象商品なので、上の話とは問題がぜんぜん変わってくるわけですが! それでも、根っこは同じだと思うのです。
『肉』の正体すら規制する「Live On Flesh」は、現実離れした特異な世界観かもしれません。けど、リアルの世界でも規制がエスカレートし続けたら……?
古張乃莉の『トラッシュカン』が発売したのは昨年末。たまたま本屋で見てジャケ買いしたのですが、大・正・解!でした。古張乃莉は昔、藍川さとるという名で『飛行×少年』を描いてた漫画家さんですい。といえば「懐かしい!」という女の子も多いかも。
他の作品も、心の〈痛み〉を丁寧に描いた良作ばかり。ものすごく「Wings」らしい単行本だと思いました。「Wings」って、「りぼん」や「なかよし」や「花ゆめ」に比べて、昔から〈痛み〉に特化した雑誌じゃありませんでした?
「ヨシユキなら 何も感じないと思ったんだ
思ったんだけど ……泣いてるね 痛い?
痛い?」
「痛いよ」
「そっか ごめんね」
「ううん いいのよ
私も ミヤギ君は痛くないんだと思ってた
ごめんね ごめんね」
―――『トラッシュカン』収録「告白ごっこ。」
「穴が開いているのよ」
―――どこに?
空に 記憶に 世界に
いいえ ―――私に
―――『トラッシュカン』収録「痛みのない日」
あの子のように もう一度
恋で 泣きたいと思った
―――『トラッシュカン』収録「それだけ」
「ずっと前からここにね
傷があって痛みもあって
でも誰に見せても そんな傷どこにもないっていうの
お医者さんもお父さんもお母さんもお姉ちゃんも
――彼も
でも コースケには見えてたんだね
だったら もうそれでいいや」
―――『トラッシュカン』収録「ふれるはずの未来」
痛みや恐怖なんて、体験しないなら体験しない方がいいに決まってる。決まってるけど、痛みを感じること、痛みの存在を知ることは、きっと生きていく上ですごく大事。
「エロゲ・エロ漫画で性犯罪を抑止されてる者なんていません!」なのか?
「エロゲを規制すれば、リアルレイープに走る奴が出る」
例のエロゲ規制関連の話題でよく目にする意見なんだけど
これって、「エロゲーマーは性犯罪予備軍です」と自ら自己紹介してる様な物だよね?
普段「三次元に興味は無し」「エロゲ、アニメは犯罪に関係なし!」と言ってるのに
規制された途端「エロゲが無ければ三次元レイープに走ります」とはどういう事なんだろう?
エロゲオタは性犯罪者?(はてな匿名ダイアリー)
エロゲをエロゲとして100%楽しんでいるユーザーなら、たしかに実際の性犯罪には無関係なんだろうけど、現実の女性に対する陵辱的性衝動抑えるためにエロゲをプレイしているユーザーは、どうなるんだろう。
「三次元に興味は無し」な人ばかりがエロゲをプレイしているとは思えない。
己の陵辱的性癖に苦しみ、代替品としてエロゲをプレイしている人もいるのではないか。エロゲに限らず、あらゆるエロ産業は、己の性衝動に苦しんでいる人々を犯罪から(加害者になることから)防いでいる面もある――と思ってるんだけど、違うかな。
「エロゲーマーを犯罪者予備軍扱いする〈性犯罪抑止論〉はイカン!」
全てのエロゲーマーが犯罪者予備軍かのように扱う暴論はイカンといわれて当然だが、〈性犯罪抑止論〉をやめようという流れには、一部の「2次元愛好者」がしばしば「3次元愛好者」を排除する構図を彷彿する。
2次ロリコンの3次ロリコンに対する罵倒とかね。
ロリコン性癖と性犯罪の壁…「2次元と3次元が共闘すべき時」
自身のサイトや2chで「陵辱ゲー最高ォォ」「LO大好き!」と語る者は、ゲームをゲームとして、漫画を漫画として、最上のエンターテイメントと認識し享楽している者達だ。それはとてもしあわせなことである。そして、ユーザーのほとんどは、そのように安全にフィクションを享楽しているのだろう。
なら、3次元の代替として2次元を使用せざるを得ない少数派は?
そのマイノリティの声は、Net上ですらほとんど目にしない。そもそもホンマにおるンかいな? まさかとは思いますが、ゆすらの想像上の存在にすぎないのでは……ならアタシが林先生の世話になれば済む話なんでいいのだが、どうもNetですら発言を抑圧されている気がしてならない。上の「3次ロリ死ね」の図のように。
(「LO」の意見広告は、そういう崖っぷちに立っている人達へ呼びかけているものだろう。つまりLOは「現実の幼女に対する性衝動を抑えるためにLOを使用している読者」をも自覚的に内包し、「YES!ロリータ NO!タッチ」と警告し続ける責務を果たしている――と。)
また、かつての西ドイツではポルノ解禁で性犯罪が激減したように、ポルノグラフィには犯罪抑止効果があるのは良く知られている。
児ポ禁法を考える
ポルノの持つ性犯罪抑止効果は、ポルノの素晴らしい功績だと思うんだけど、それを主張するのは恥ずかしいことなの? 何故? 規制派に対抗するロジックのため?
と思ってたら、ここのTBに答えがありました。
d.「ポルノの性犯罪抑止効果」説
この主張は、ポルノ読者が「絵の規制をしただけで児童に襲い掛かる」といった誤った印象を持たれかねません。また、「犯罪とマンガの直接的な関連性は薄い」と規制反対派が言っている主張と矛盾してしまいます。従って「ポルノには性犯罪抑止効果がある」という主張は原則的にしない方が良いでしょう。
「ポルノには性犯罪抑止効果がある」という主張は、「ポルノが性犯罪を助長する」と、規制推進側が議論上で言ってきた時にのみ「逆に、ポルノが性犯罪を抑止している可能性も考えられます。どちらにせよ明確な答えはありませんから、ポルノが性犯罪を助長するとは一概には言えません」といった文脈で、カウンター的に主張するに留めるのが良いでしょう。
◆表現規制に効果的に反対するために◆(AMI-Web)
たしかに「犯罪とフィクションの直接的な関連性は薄い」論とは両立できない論です。
やはり、理論武装のために「エロゲ・エロ漫画で性犯罪を抑止されてる者はいない」ことにしないといけないのか。
そもそも実際に抑止できているのか、証明するデータがあるわけでもないしね。もし証明される時がくるとしたら、そのときは同時に「エロゲ・エロ漫画で性犯罪を触発された者」のデータも証明されてるだろうし……。開けてはいけないパンドラの箱?
――現実に起きている性犯罪のほとんどが、エロゲ・エロ漫画とは無関係なnotオタクによる犯罪であるのは事実。なのに規制されるのはフィクションの世界ばかり。
「犯罪なんか起こすかいボケェ!」「2次元を奪われたからって、3次元なんぞに手ぇ出すか!」と怒りたくなるのも当然でしょう。
でも、性犯罪……というか犯罪を犯す可能性のない人間なんて、ぶっちゃけこの世にいますかね? そーゆー衝動を抱えた生き物が人間じゃないんですかね。規制を退けるために「オタクは2次元で満たされてるから安心安全! 人畜無害の人材〜」と主張しなければいけませんか?
「2次元マンセ〜」になれるわけでもなく、「おれは人間をやめるぞ!」と陵辱的性衝動を現実に解放するわけでもなく、日々エロゲ・エロ漫画で性衝動を押さえ込んでいる少数の人々は、これまでどおり「存在しない」ものとして無視され続けないといけないのか。黙り続けなければいけないのか。「医者に行け」なのか。
どうにも、もやもやが胸の中に溜まります。
女の孤独から目をそらす男は死刑っ!『中春こまわり君』
トークイベントを観に行ったついでに、江口寿史、田村信、それに泉晴紀がアシスタントで参加した『中春こまわり君』を読んでみました。
いうまでもなく『中春こまわり君』は、70年代に大ヒットした山上たつひこの漫画『がきデカ』の大人バージョンです。
大人というか、中年。38歳。逆向小学校の自称・少年警察官が、30年近い歳月を経て、金冠生生電器の営業マンへ変貌。生々しい成長です。妻子も得て、生活のために働くこまわりさん。中年の春だから「中春(ちゅーしゅん)」。
『がきデカ』は世代じゃなかったアタシは、今回『中春』と一緒に呉智英監修の『がきデカTHE BEST』も1冊購入してきました。初がきデカです。あ、意外と「死刑!」や「アフリカ象が好きっ!」の定番ギャグは出てこないんだ、なんてベタな感想を抱きつつ(『北斗の拳』も漫画では「おまえはもう死んでいる」がほとんど出てこないのと同じで)、一度に味わった小学生と中年のふたりのこまわり君は、感慨深いものでした。
●こまわり君(11)と、こまわり氏(38)の違い●
まず、尻が違う。
『がきデカ』といえば、下劣なギャグのオンパレード。とくにこまわり君(11)の下半身が露出される回数は尋常じゃなく、ケツの汚さも尋常ではありませんでした。薄汚れたケツあっての、こまわり君だったと(『サルまん』でもゆーてたしね)。
んが、『中春』のこまわり氏(38)のケツは、とってもクリーン。そもそも下半身の露出が極端に少なく、晒しても局部にはモザイクがかかっている始末です。小学生のちんちんはOKでも、中年の陰茎は犯罪ということですね。SM○Pが逮捕されるご時世ですからねぇ。
「汚れを知る」――大人になることを表わすポピュラーな言い回しですが、こまわり君に至っては逆だったわけです。ウンコチンコの汚れを払い、大人への階段を登っていった……。本当に汚れたものは、社会へ出ればイヤというほど目に入ってくるしね。「汚ない!」なんていちいち指摘していては、家族を養えないもの。
30過ぎの男が陽気に「死刑!」と腰をひねってられない現実が、そこにありました。
こまわり君お得意の七変化、関西弁のボケとツッコミは健在ですが、作品全体を漂うこの哀愁は何なのでしょう。

当時『がきデカ』が好きだった元・男子にオススメするのは当然ですが、アタシは『がきデカ』を読んでなかったor嫌いだった元・女子にこそ、この『中春こまわり君』を激しくススメたい!
何故なら、そこに描かれてる「女の暗闇」が、尋常ではないからです。
●『中春こまわり君』が描く、女の孤独、強さ、老い●
メインストーリーは、夫婦の別居だったり浮気だったり会社内を巡る陰謀だったり。『中春』は一応〈サラリーマン漫画〉ですから、社会や家庭や成人病に振り回される悲しいサラリーマンが描かれています。けれど、その合間に挿入される女の孤独、絶望、悲鳴の激しさたるや……。ああ、つるかめつるかめ。
こまわりの同級生だった、かつての美少女ジュンちゃんは、ひとりで義父の介護に忙殺される、やつれた女性に変わっていました。
排泄ができない義父の代わりに浣腸をし、巨大なホースで排便を促す毎日。スエット姿の体からはウンコ臭しか漂わず、ジュンに介護をに任せっきりの夫はよそに愛人を作り……なんという絶望でしょう。
当時のメインキャラクター、物語のアイドルにこの仕打ちとは、作者も容赦ありませんね。しかし、これが彼女だけの特別な不幸かと問うと、そうではない。世間を見渡せば、介護問題を抱えている家はゴマンとあるわけです。
「絶望」と叫びながら、ジュンは介護生活から身を退こうとしません。彼女にとって、それが自分の〈仕事〉だからです。
――はたまた、かつてのこまわりの担任、あべ美智子先生。
病院でばったり再会したこまわりとあべ先生は、それぞれ痛風・肝数値増加という「若くない」病を抱えながら、飲み屋へと繰りだします。夜、案の定したたか酔っ払ってしまったあべ先生は、こまわり家へ泊まることに。『がきデカ』では婚約者のいたあべ先生も、今は独り身……帰っても介抱してくれる人がいないのです。
恩師のため、ゲロ吐き用の洗面器を客室へ持っていく、こまわり。あべ先生は、暗い部屋でひとり布団に横たわりながら、呟きます。
泥酔したまま寝込み、吐瀉物を気管へつまらせて死んだ、歌手の江利チエミ。あべ先生は、不幸につきまとわれた往年の歌手と、酒に溺れるばかりの自分を重ねます。
……嗚呼。30年振りに再会した独り身の恩師に、こんな孤独をブチまけられたら、アナタならどうしますか? 宥めることができますか? 洞穴のような寂しさを埋める言葉なんて、みつかりますか?
この悲鳴に、元・教え子こまわりは、必死に洗面器の有効活用を彼女へ説きます。
孤独には底がないが、洗面器には底がある。
洗面器は寂しさこそ受け止めてくれないが、ゲロは受け止めてくます。気管がつまって死ぬことはない。……他人が救える孤独なんて、せいぜいそれくらいじゃないでしょうか。孤独を救うというかゲロを掬うというか。でも、その「せいぜい」が大事。
「洗面器を持ってきてくれる手」が、ひとつの孤独な命を救うこともあるでしょう。
――この夜、あべ先生が洗面器にゲロを吐いたかどうかはわかりませんが、一ヵ月後、ふたたびこまわりと会ったあべ先生の顔は、たしかに笑顔でした。禁酒で肝数値を下げ、同窓会話でこまわりと盛り上がります。
義父を介護するジュンを見たこまわりの言葉ですが、ジュンに限らず、あべ先生に限らず、女は強い。
『中春』はリアルな女の孤独・絶望を描くと同時に、リアルな逞しさも描いています。アタシが痺れたのはそこです。
『がきデカ』時代はタイミングが合わず読めなかったけど、アラサー女の今、アラフォー男のこまわりさんと出会えてよかった。これは少年誌時代には描けなかった心のヒダでしょう。
あとは、こまわり父・常雄(69)と、恐らく更年期障害を患ってるこまわり母・としえ(65)の老夫婦のやり取りも、静かに強烈でしたね。
――一升瓶を抱えて眠るとしえの妖艶な腰に惹かれ、妻を抱きしめてみる常雄。あっさり「なにその手は。」と拒絶され、寝室を出る常雄は、縁側で猫が横切るのを目撃し、再び寝室へと戻って、平凡なその出来事を必死に妻へ報告する。「そお……」というとしえの返答を確認し、常雄はまた寝室をあとにする――何じゃこりゃ!? 物語とはまったく関係ない、5Pにも及ぶオチのない唐突なやり取り。意味不明です。意味不明ですが、何だ、この生々しさは。
うーん、この妙は実際に読んで確認していただきたい!
2004年、2006年、2008年と、2年毎に「ビッグコミック」で掲載されたこの作品。
『がきデカ』時代は「サザエさん時空」で年と取らなかったこまわり君たちも、『中春』では現実に則して年を取ります。つまり、38歳で登場したこまわりは、単行本の終盤には42歳になっているのです。
今後、こまわり達はどんな風に年を重ねていくのでしょう。というか、続くよね? これで終りじゃないよね『中春』。2年後ずつでもかまいません。ゆるやかに、こまわり版の「老い」を、「人生」を、「女」を、読み続けたい!
いうまでもなく『中春こまわり君』は、70年代に大ヒットした山上たつひこの漫画『がきデカ』の大人バージョンです。
大人というか、中年。38歳。逆向小学校の自称・少年警察官が、30年近い歳月を経て、金冠生生電器の営業マンへ変貌。生々しい成長です。妻子も得て、生活のために働くこまわりさん。中年の春だから「中春(ちゅーしゅん)」。
『がきデカ』は世代じゃなかったアタシは、今回『中春』と一緒に呉智英監修の『がきデカTHE BEST』も1冊購入してきました。初がきデカです。あ、意外と「死刑!」や「アフリカ象が好きっ!」の定番ギャグは出てこないんだ、なんてベタな感想を抱きつつ(『北斗の拳』も漫画では「おまえはもう死んでいる」がほとんど出てこないのと同じで)、一度に味わった小学生と中年のふたりのこまわり君は、感慨深いものでした。
●こまわり君(11)と、こまわり氏(38)の違い●
まず、尻が違う。
『がきデカ』といえば、下劣なギャグのオンパレード。とくにこまわり君(11)の下半身が露出される回数は尋常じゃなく、ケツの汚さも尋常ではありませんでした。薄汚れたケツあっての、こまわり君だったと(『サルまん』でもゆーてたしね)。
んが、『中春』のこまわり氏(38)のケツは、とってもクリーン。そもそも下半身の露出が極端に少なく、晒しても局部にはモザイクがかかっている始末です。小学生のちんちんはOKでも、中年の陰茎は犯罪ということですね。SM○Pが逮捕されるご時世ですからねぇ。
「汚れを知る」――大人になることを表わすポピュラーな言い回しですが、こまわり君に至っては逆だったわけです。ウンコチンコの汚れを払い、大人への階段を登っていった……。本当に汚れたものは、社会へ出ればイヤというほど目に入ってくるしね。「汚ない!」なんていちいち指摘していては、家族を養えないもの。
30過ぎの男が陽気に「死刑!」と腰をひねってられない現実が、そこにありました。
こまわり君お得意の七変化、関西弁のボケとツッコミは健在ですが、作品全体を漂うこの哀愁は何なのでしょう。

当時『がきデカ』が好きだった元・男子にオススメするのは当然ですが、アタシは『がきデカ』を読んでなかったor嫌いだった元・女子にこそ、この『中春こまわり君』を激しくススメたい!
何故なら、そこに描かれてる「女の暗闇」が、尋常ではないからです。
メインストーリーは、夫婦の別居だったり浮気だったり会社内を巡る陰謀だったり。『中春』は一応〈サラリーマン漫画〉ですから、社会や家庭や成人病に振り回される悲しいサラリーマンが描かれています。けれど、その合間に挿入される女の孤独、絶望、悲鳴の激しさたるや……。ああ、つるかめつるかめ。
こまわりの同級生だった、かつての美少女ジュンちゃんは、ひとりで義父の介護に忙殺される、やつれた女性に変わっていました。
排泄ができない義父の代わりに浣腸をし、巨大なホースで排便を促す毎日。スエット姿の体からはウンコ臭しか漂わず、ジュンに介護をに任せっきりの夫はよそに愛人を作り……なんという絶望でしょう。
当時のメインキャラクター、物語のアイドルにこの仕打ちとは、作者も容赦ありませんね。しかし、これが彼女だけの特別な不幸かと問うと、そうではない。世間を見渡せば、介護問題を抱えている家はゴマンとあるわけです。
ジュン「老人介護はハンパな気持ちじゃやってられないのよ。わかった?」
―――『中春こまわり君』ジュン・中編
「絶望」と叫びながら、ジュンは介護生活から身を退こうとしません。彼女にとって、それが自分の〈仕事〉だからです。
――はたまた、かつてのこまわりの担任、あべ美智子先生。
病院でばったり再会したこまわりとあべ先生は、それぞれ痛風・肝数値増加という「若くない」病を抱えながら、飲み屋へと繰りだします。夜、案の定したたか酔っ払ってしまったあべ先生は、こまわり家へ泊まることに。『がきデカ』では婚約者のいたあべ先生も、今は独り身……帰っても介抱してくれる人がいないのです。
恩師のため、ゲロ吐き用の洗面器を客室へ持っていく、こまわり。あべ先生は、暗い部屋でひとり布団に横たわりながら、呟きます。
あべ「江利チエミはこうやって死んだんですってね。」
―――『中春こまわり君』痛い風・後編
泥酔したまま寝込み、吐瀉物を気管へつまらせて死んだ、歌手の江利チエミ。あべ先生は、不幸につきまとわれた往年の歌手と、酒に溺れるばかりの自分を重ねます。
あべ「あおむけのまま吐いたら、そりゃ息が詰まるわよね。」
あべ「寂しかったんだろうな。江利チエミ。」
あべ「冬だったけど暖房をつけっぱなしだったらしくて、発見された時には顔がふくれ上がって悲惨だったそうよ。」
あべ「あなたには人の孤独というものがわからないの! 独りぼっちのせつなさが!」
―――『中春こまわり君』痛い風・後編
……嗚呼。30年振りに再会した独り身の恩師に、こんな孤独をブチまけられたら、アナタならどうしますか? 宥めることができますか? 洞穴のような寂しさを埋める言葉なんて、みつかりますか?
この悲鳴に、元・教え子こまわりは、必死に洗面器の有効活用を彼女へ説きます。
こまわり「おあむけになって吐くのが孤独ですか。先生。
せつないとあおむけに吐くんですか。
洗面器があるのにわざわざあおむけになって吐くことはないでしょう!」
―――『中春こまわり君』痛い風・後編
孤独には底がないが、洗面器には底がある。
洗面器は寂しさこそ受け止めてくれないが、ゲロは受け止めてくます。気管がつまって死ぬことはない。……他人が救える孤独なんて、せいぜいそれくらいじゃないでしょうか。孤独を救うというかゲロを掬うというか。でも、その「せいぜい」が大事。
「洗面器を持ってきてくれる手」が、ひとつの孤独な命を救うこともあるでしょう。
――この夜、あべ先生が洗面器にゲロを吐いたかどうかはわかりませんが、一ヵ月後、ふたたびこまわりと会ったあべ先生の顔は、たしかに笑顔でした。禁酒で肝数値を下げ、同窓会話でこまわりと盛り上がります。
こまわり「たしかに女は強い。」
―――『中春こまわり君』ジュン・中編
義父を介護するジュンを見たこまわりの言葉ですが、ジュンに限らず、あべ先生に限らず、女は強い。
『中春』はリアルな女の孤独・絶望を描くと同時に、リアルな逞しさも描いています。アタシが痺れたのはそこです。
『がきデカ』時代はタイミングが合わず読めなかったけど、アラサー女の今、アラフォー男のこまわりさんと出会えてよかった。これは少年誌時代には描けなかった心のヒダでしょう。
あとは、こまわり父・常雄(69)と、恐らく更年期障害を患ってるこまわり母・としえ(65)の老夫婦のやり取りも、静かに強烈でしたね。
――一升瓶を抱えて眠るとしえの妖艶な腰に惹かれ、妻を抱きしめてみる常雄。あっさり「なにその手は。」と拒絶され、寝室を出る常雄は、縁側で猫が横切るのを目撃し、再び寝室へと戻って、平凡なその出来事を必死に妻へ報告する。「そお……」というとしえの返答を確認し、常雄はまた寝室をあとにする――何じゃこりゃ!? 物語とはまったく関係ない、5Pにも及ぶオチのない唐突なやり取り。意味不明です。意味不明ですが、何だ、この生々しさは。
うーん、この妙は実際に読んで確認していただきたい!
2004年、2006年、2008年と、2年毎に「ビッグコミック」で掲載されたこの作品。
『がきデカ』時代は「サザエさん時空」で年と取らなかったこまわり君たちも、『中春』では現実に則して年を取ります。つまり、38歳で登場したこまわりは、単行本の終盤には42歳になっているのです。
今後、こまわり達はどんな風に年を重ねていくのでしょう。というか、続くよね? これで終りじゃないよね『中春』。2年後ずつでもかまいません。ゆるやかに、こまわり版の「老い」を、「人生」を、「女」を、読み続けたい!